もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。
ユダの人々とエルサレムに住む人々よ、 あなたがたは自ら割礼を行って、 主に属するものとなり、 自分の心の前の皮を取り去れ。 さもないと、あなたがたの悪しき行いのために わたしの怒りが火のように発して燃え、 これを消す者はない」。
割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。
というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。
なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。
だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。
かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。
割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。
事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。